戦国大名『斎藤道三』(さいとうどうさん)とは
戦国時代の武将であり美濃の戦国大名
出典:wikipedia
戦国の乱世に身を置き、名もない僧侶から戦国大名にまで成り上がった人物です。
父は松波基宗。道三の幼名は「峰丸」といい、京都妙覚寺で得度を受けて僧侶となったと言います。
還俗してからは、油商人となり行商として成功していながら、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったといいます。
それからは、武芸と才覚で次第に頭角を現し、美濃を治めていた土岐氏から信頼を得ることになりました。
同じく信頼を得ていた長井長弘の除去を画策して、殺害を企て、数々の遍歴と才覚を持って美濃の国盗りを成します。
『斎藤道三』の略歴
歴史の表舞台に出てくるまでには様々な諸説があります。 | |
明応3年 (1494年) |
山城乙訓郡西岡で生まれたとされる。 ※生年については永正元年(1504年)とする説もある。 |
永正元年 (1504年) |
京都妙覚寺で僧侶となる。法名は法蓮房。 その後、油商人から武士への道へ進み、長井長広に仕える。 |
大永7年 (1527年) |
土岐頼芸の信頼を得て、土岐氏の家督相続でも貢献する。 |
享禄元年 (1528年) |
土岐頼芸の愛妾、深芳野をもらい受ける。 |
享禄3年 (1530年) |
同じく信頼を得ていた長井長弘を殺害する。 |
天文4年 (1535年) |
土岐氏の美濃国覇権争いが美濃全土に広がる。 |
天文7年 (1538年) |
美濃守護代の斎藤利良が病死。その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗る。 |
天文8年 (1539年) |
土岐氏の覇権争いの最中、和議が成立するが、密かに裏で利政(道三)が調略を進めている。 居城である稲葉山城の大改築を行う。 |
天文10年 (1541年) |
利政の策略で土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となり、頼芸と利政との対立抗争が開始した。 |
天文11年 (1542年) |
土岐頼芸を尾張へ追放し、事実上の美濃国主となる。 |
天文16年 (1547年) |
織田信秀(信長の父)が稲葉山城攻めを仕掛けるも、利政は籠城戦で織田軍を返り討ちにし、壊滅寸前にまで追い込む。 |
天文17年 (1548年) |
織田信秀と和睦し、利政の娘「帰蝶」を信秀の嫡子織田信長に嫁がせる。 |
天文21年 (1552年) |
織田との和睦を機に、織田家の後援を受けて利政に反逆していた者は滅ぼされ、利政は完全に美濃を手中に治めることになる。 |
天文23年 (1554年) |
家督を子の斎藤義龍へ譲る。 常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号して、鷺山城に隠居する。 |
弘治元年 (1555年) |
道三は義龍の弟である孫四郎や喜平次らを偏愛したため、義龍が弟達を殺害し、道三に挙兵してしまう。 |
弘治2年 (1556年) |
長良川の戦いにおいて、大軍の義龍勢に討ち取られる。 |