戦国大名『徳川家康』(とくがわいえやす)とは
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で三英傑の一人
出典:wikipedia
関ヶ原の戦で石田三成を、大坂冬・夏の陣では豊臣氏を滅ぼし、天下を統一して幕府の基礎を固めた人物です。
家康の容姿は、背が低く太っており、醜男であったとされています。さらにずる賢さも持ち合わせていたため、周囲からは「狸おやじ」と囁かれていました。
武芸においては非常に精通しており、特に弓術においては「東海一の弓取り」と呼ばれるほど馬上から敵を何人も射ち倒したといわれております。
文武両道であった家康は、戦乱の時代に終止符を打ち、264年も続く江戸時代の礎を築きました。
『徳川家康』の略歴
天文11年 (1542年) |
岡崎城(現在の愛知県)で誕生 幼名は竹千代 3歳にして母と生き別れになり、数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られる |
天文24年 (1555年) |
駿府の今川氏の下で元服し次郎三郎元信と名乗る 今川義元の姪の瀬名(築山殿)をめとる |
永禄3年 (1560年) |
桶狭間の戦いで今川義元が討たれた際に、今川軍が放棄した岡崎城に入り、今川氏から自立していく |
永禄5年 (1562年) |
今川氏と断交して信長と同盟を結ぶ |
永禄6年 (1563年) |
家康と名を改める |
永禄9年 (1566年) |
東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一 松平から徳川に改姓 |
永禄11年 (1568年) |
有力守護大名に授けられる官職「左京大夫」に任命される |
永禄12年 (1569年) |
武田家臣・秋山虎繁(信友)が遠江国への侵攻し、武田氏との同盟が破棄されることになる |
元亀元年 (1570年) |
遠江国を浜松と改名し、浜松城を本城とした また姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍を撃破する活躍を見せる |
元亀3年 (1572年) |
武田氏が遠江国・三河国へ侵攻したため、二俣城が落城してしまう |
天正3年 (1575年) |
織田・徳川連合軍と武田軍の戦い(長篠の戦い)が行われ、火縄銃を主力とした織田・徳川連合軍が勝利する |
天正9年 (1581年) |
高天神城の戦いで武田勝頼の治めていた高天神城を奪回する |
天正3年 (1575年) |
織田・徳川連合軍と武田軍の戦い(長篠の戦い)が行われ、火縄銃を主力とした織田・徳川連合軍が勝利する |
天正9年 (1581年) |
高天神城の戦いで武田勝頼の治めていた高天神城を奪回する |
天正10年 (1582年) |
織田信長と共同で武田領に侵攻を開始し、武田氏を滅亡させる |
天正10年 (1582年) |
本能寺の変が起こり、織田信長を討った明智光秀に進軍するが、羽柴秀吉が先に明智光秀の討伐を果たす |
天正10年 (1582年) |
甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名になる |
天正12年 (1584年) |
羽柴秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いがはじまる |
天正14年 (1586年) |
大坂城で豊臣秀吉に謁見し、諸大名の前で臣従することを表明する |
天正14年 (1586年) |
正三位に叙任 |
天正15年 (1587年) |
従二位・権大納言に叙任 |
天正18年 (1590年) |
甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を豊臣秀吉に召し上げられ、拠点を関東に移すことになる |
慶長元年 (1596年) |
豊臣秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる |
慶長3年 (1598年) |
豊臣秀吉の死後、家康が朝廷の官位で最上位となる |
慶長5年 (1600年) |
石田三成率いる西軍に関ヶ原の戦いで勝利する |
慶長8年 (1603年) |
征夷大将軍となる |
慶長19年 (1614年) |
大坂冬の陣がはじまる |
慶長20年 (1615年) |
大坂夏の陣がはじまり、大阪城を落城させる |
元和元年 (1615年) |
日本全域の支配を実現する |
元和2年 (1616年) |
鷹狩に出た先で倒れ、75歳(満73歳4ヵ月)で死去 |