戦国武将・大名『本多正信』(ほんだまさのぶ)とは
戦国時代から江戸時代前期の戦国武将・大名
出典:wikipedia
徳川家康の家臣で江戸幕府の老中でもある本多正信は、戦国武将である本多俊正の次男として三河国で生まれました。
層の厚い徳川家臣の中でも家康の信頼を得ており、江戸開府後は家康を、2代将軍・徳川秀忠には側近として幕政の中枢にあり権勢を振るいました。
徳川家康の盟友とまで言われた本多正信ですが、徳川四天王と呼ばれる酒井忠次・本多忠勝・井伊直政・榊原康政らからは、謀略をめぐらしているだけで信任を得ていることが面白くなかったと言います。それだけに家康の参謀としてかなり見込まれていたことが伺えます。
家康の死後は家督を嫡男の正純に譲り、隠居して一切の政務から離れ生涯を終えたと言います。享年79。
『本多正信』の略歴
天文7年 (1538年) |
本多俊正の次男として三河国で生まれる。 |
永禄3年 (1560年) |
桶狭間の戦いで今川義元の命で家康に従い、丸根砦を攻めた際に膝に傷を負ってしまう。 |
永禄6年 (1563年) |
三河一向一揆が勃発。三河家臣団の多くが一揆側につき、武将として弟の正重と共に家康に敵対しました。 家康による三河一向一揆の鎮圧の際に正信は三河を追放。流浪先の大和国で松永久秀に仕えていたと言われております。 |
元亀元年(1570年) | 近江国・姉川で織田徳川連合軍として戦う(姉川の戦い)。 ※姉川の戦いに参戦していることから、この頃には家康とは敵対にあらず徳川家へ帰参しているが、帰参時期は諸説あって定かではない。 |
天正10年 (1582年) |
本能寺の変が起こり、堺の町に滞在していた家康は伊賀越えを敢行。その際に正信も同行していた可能性があります。 |
天正14年 (1586年) |
家康が豊臣秀吉に服属した後、従五位下・佐渡守に叙位・任官される。通称「佐渡殿」 |
天正18年 (1590年) |
相模国玉縄で1万石の所領を与えられて大名となる。 関東への移封を命じられた徳川家康から関東総奉行を任され、江戸の街づくりと管理・運営に尽力。 |
慶長5年 (1600年) |
関ヶ原の戦いで徳川秀忠の軍勢に付き従う。 |
慶長6年 (1601年) |
家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したと言われる。 |
慶長8年 (1603年) |
江戸幕府が開かれ、家康の側近として幕政を主導する。 |
慶長10年 (1605年) |
家康が隠居して大御所となる。その後2代将軍・徳川秀忠の政治も支える。 |
慶長12年 (1607年) |
秀忠付の年寄(老中)になる。 |
元和2年 (1616年) |
家康の死去とともに家督を嫡男の正純に譲り隠居する。 一切の政務から離れた後、家康のあとを追うように同年6月に死去。享年79。 |