戦国武将『明智光秀』(あけちみつひで)とは
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名
出典:wikipedia
清和源氏の土岐氏の流れを持つ明智氏の生まれではありますが、低い身分の出身ゆえ幼少期の記録には不明な点が多いと言われております。
織田信長にその能力を買われる前は朝倉家に仕えていたと言われております。
織田信長の家臣になってからは数々の武勲を挙げ、厚い信頼を得ておりました。
また、後に本能寺の変において君主である信長を裏切ることになりますが、それまでの光秀の行動や残されている文献からは、信長を非常に崇拝していることが伺えます。
いまだに多くの謎を残している本能寺の変ですが、光秀は天下人になってからわずか13日でその生涯を終えてしまいます。
その短い治世は「三日天下」とも言われ、本能寺の変から山崎の戦いに至るまで、光秀の行動や考えは不可解なことが多く明確な心情がわからないままになっております。
『明智光秀』の略歴
永正13年~天文9年 (1526年~1540年) |
生まれた年には様々な説があり不明な点が多い。 生まれた場所は岐阜県可児市の明智城が有力です。 幼少期から青年期の記録はないが、美濃国の斎藤道三に仕えたと言われております。 |
弘治2年 (1556年) |
長良川の戦いで明智氏は斎藤道三に与したため、敵方の斎藤義龍に明智城を攻められる。 陥落した明智城から逃げ、流浪の生活が始まったと言われております。 その後、越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたと言われております。 |
永禄8年 (1565年) |
第13代将軍の足利義輝が暗殺される。 |
永禄9年 (1566年) |
足利義昭が朝倉義景に頼った際に光秀と義昭に面識ができる。 |
永禄11年 (1568年) |
光秀が仲介役となり義昭を征夷大将軍に就けるように信長に働きかける。 信長の正室である濃姫(斎藤道三の娘)が光秀の血縁関係にあった可能性があり、その縁から信長に働きかけることができたとされる。 |
永禄12年 (1569年) |
三好三人衆らが本圀寺で義昭を襲撃した際に光秀は防戦することになる。 この頃に織田家の家臣、木下秀吉(のち羽柴に改姓)や丹羽長秀、中川重政らと京都の政務に携わる。 |
元亀元年 (1570年) |
金ヶ崎の戦いにおいて、光秀は撤退を余儀なくされた信長を無事に逃がすことに成功する。 |
元亀2年 (1571年) |
信長、義昭とともに摂津国に出陣し、比叡山焼き討ちの中心実行部隊として武功を挙げる。 |
元亀3年 (1572年) |
河内国への出兵に従軍する。 |
元亀4年 (1573年) |
信長を良く思わなかった義昭が挙兵したため、光秀は義昭との縁を切り、信長の直臣として参戦する。 義昭から離れた光秀に従った室町幕府の幕臣も多くいたとされております。 |
天正元年 (1573年) |
京都の行政機関を執り仕切る奉行役を担当する。 |
天正3年 (1575年) |
従五位下日向守に任官し、惟任日向守となる。 前一向一揆殲滅戦に参加し、丹波国攻略を任される。 |
天正4年 (1576年) |
石山本願寺との天王寺の戦いに出動する。 正室の煕子が坂本城で病死する。 |
天正5年 (1577年) |
紀州征伐のため雑賀攻めに従軍する。 |
天正6年 (1578年) |
毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、神吉城攻めに加わる。 信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。 |
天正7年 (1579年) |
丹波国を平定し、その勢いのまま細川藤孝と協力して丹後国も平定する。 |
天正8年 (1580年) |
亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して福智山城に改名する。 「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長から絶賛される。 近江から山陰へ向けた畿内方面の所領240万石ほどを拝領することになる。 |
天正9年 (1581年) |
京都御馬揃え(信長が行った軍事パレード)の運営を任される。 光秀の妹であり、信長の側室である御ツマキが死去。 |
天正10年 (1582年) |
武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻するため信長に従軍する。 信長から羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられるも、本能寺を目指し、信長を急襲する。 本能寺の変を知り、急遽引き返してきた羽柴秀吉と天王山の麓の山崎で迎え撃つが、秀吉軍を打ち破ることができず、敗走の途中で自害する。 |