戦国武将・大名『浅井長政』(あざいながまさ)とは
戦国時代の北近江の戦国武将・大名
出典:wikipedia
浅井氏第3代目にして最後の当主である浅井長政は、浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生を受けます。
浅井氏は初代当主である浅井亮政(長政の祖父)の下克上により、北近江の守護であった京極氏を落とすも、南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れてしまいます。
長政が15歳の元服後には、家督を継ぎ六角氏から離反する意思を明確にし、織田との同盟により勢力を強めるようになりました。
織田が朝倉と戦をする際には、長政は朝倉義景との同盟関係を重視したため、織田との同盟破棄に至ります。
その後は織田との対立が激化し小谷城の戦いにおいて自害させられます。享年29。
豊臣秀吉の側室である淀殿は、浅井長政の娘であり三姉妹の一人として知られております。
『浅井長政』の略歴
天文14年 (1545年) |
浅井久政の嫡男として南近江の観音寺城下で生まれる。 幼名は猿夜叉丸。 |
永禄2年 (1559年) |
浅井家で父久政の屈辱外交に不満を抱く家臣がクーデターを起こす。 |
永禄3年 (1560年) |
15歳のときに六角氏当主である六角義賢の一字をとって賢政と名乗る。 六角氏の家臣、平井定武の娘と婚姻。 軍を率いて、野良田の戦いで六角軍に挑み大勝する。 |
永禄6年 (1563年) |
六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺され、これを機に六角氏との停戦協議により膠着状態が続く。 |
永禄7年(1564年)から永禄10年(1567年)の頃 | 織田・浅井の両家との政略結婚により長政は信長の妹の市を妻とした。※長政と市の婚姻時期については様々な諸説があります。 |
永禄11年(1568年) | 越前国に滞在していた足利義昭が上洛する道中で、反抗する六角氏を攻撃。義昭を守護しながら上洛を掩護した。 |
元亀元年 (1570年) |
信長との間に交わされていた「朝倉への不戦の誓い」を信長が破りったため、長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。 朝倉軍とともに近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。 |
元亀2年 (1571年) |
浅井氏と協力関係にあった延暦寺が、信長の比叡山焼き討ちに遭い壊滅する。 |
元亀3年 (1572年) |
信長が北近江に来襲したため同盟者でもあった朝倉義景に援軍を要請。 同年12月、沈着状態が続くなか、在陣の朝倉義景の軍が兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国してしまう。 |
天正元年(1573年) | 北近江に攻め寄せた信長の軍勢3万に対し、朝倉軍の援軍合わせた2万で対戦するも浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退を始める。 浅井軍は本拠地であった小谷城を織田軍に包囲される。 何度も降伏を勧める織田軍でしたが、籠城をする長政は断固拒否。父の久政が自害した翌日、長政も自害したとみられてます。 |