武将・戦国大名『井伊直政』(いいなおまさ)とは
徳川四天王のひとりで井伊の赤鬼と恐れられた武将
出典:wikipedia
井伊氏第20代目当主の井伊直政は、上野国高崎藩の初代藩主であり、後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主でもあります。
井伊直政は遠江国井伊谷の出身で、徳川家臣となった当時は外様*(とざま)であったが、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えました。
武勇に秀でた井伊直政は、徳川二十八神将に数えられ家康の天下取りに大きく貢献しました。
*外様(とざま)…将軍の一門または譜代の家臣でないこと
『井伊直政』の略歴
永禄4年 (1561年) |
今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として生をうける。幼名は虎松。 |
永禄11年 (1568年) |
井伊家家老の小野道好が今川氏からの命で虎松を亡き者にしようとしたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入る。 |
天正2年 (1574年) |
父・直親の13回忌のため龍潭寺にくる。 松下氏の養子になる。 |
天正3年 (1575年) |
家康に見出され井伊氏に復し、名を井伊万千代と改める。 家康の小姓として取り立てられる。 |
天正9年 (1581年) |
高天神城の戦いの攻略を初めとする武田氏との戦いで戦功を立てる。 |
天正10年 (1582年) |
22歳で元服し直政と名乗る。 天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当する。 旗本先手役の侍大将になる。その部隊は井伊の赤備えという。 |
天正11年 (1583年) |
松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。 |
天正12年 (1584年) |
小牧・長久手の戦いで赤備えを率いて武功を挙げる。その勇猛さから「井伊の赤鬼」と称され諸大名から恐れられた。 |
天正13年 (1585年) |
真田攻めの撤退を指揮するために上田に派遣される。 |
天正16年 (1588年) |
古参の重臣達が諸大夫に留まる中、徳川家中で最も高い格式の重臣となる。 |
天正18年 (1590年) |
小田原征伐では数ある武将の中で唯一夜襲をかけ、小田原城内にまで攻め込んだ武将として名が知れる。 |
慶長3年 (1598年) |
豊臣秀吉が死去。 |
慶長5年 (1600年) |
関ヶ原の戦いで家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命される。 島津豊久を討ち取るが、島津義弘に追撃をかけた際に足を狙撃され、落馬してしまう。 石田三成の旧領である近江国佐和山18万石を与えられ従四位下に任官する。 戦後は江戸幕府の基礎固めに尽力した。 |
慶長7年 (1602年) |
彦根城築城途中に佐和山城で死去。享年42。 |