戦国大名『佐々成政』(さっさなりまさ)とは
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名
出典:wikipedia
織田信長に仕えていた佐々成政は、元々は織田信安の家臣だったと言われています。
信長に仕えるようになってからは、馬廻衆(直属の親衛隊)として、その頭角を現すようになりました。
成政は馬廻衆の中でも特に優秀だったと言われており、馬廻衆のなかでもエリートと呼ばれる集団「黒母衣衆」に抜擢されるなど信長からも一目を置かれていました。
また、豊臣秀吉と前田利家とはそりが合わなかったという話しは有名ですが、本能寺の変以前までは仲が良かったとの話しもあります。
『佐々成政』の略歴
生まれについては様々な諸説がある。 父は佐々成宗(盛政とも)。 |
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永禄3年 (1560年) |
兄たちの戦死により家督を継ぎ、比良城主となる。 |
永禄4年 (1561年) |
織田信長に仕えた後、森部の戦いで池田恒興と共に稲葉一鉄の叔父である稲葉又右衛門を討ち取る。 |
永禄10年 (1567年) |
黒母衣衆に抜擢される。 |
元亀元年 (1570年) |
姉川の戦いで少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍する。 |
天正2年 (1574年) |
長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸を失う。 |
天正3年 (1575年) |
長篠の戦いで、前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いる。 信長から越前府中3万3,000石を与えられる。 小丸城を築く。 |
天正5年 (1577年) |
能登国に侵入するも、七尾城が陥落したため撤退する。 |
天正8年 (1580年) |
神保長住の助勢として、越中国平定に関わる。 |
天正9年 (1581年) |
越中国守護となり、富山城を居城として大規模な改修を行う。 |
天正10年 (1582年) |
上杉軍の最後の拠点である魚津城を攻略する。 主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害したことを知るも、上杉軍の反撃に遭い、防戦で身動きが取れなかったため、明智光秀を討つ手柄を羽柴秀吉に先を越されてしまう。 清洲会議で勝家と秀吉との織田家の実権争いが表面化すると、成政は勝家方につくことにする。 |
天正11年 (1583年) |
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである賤ヶ岳の戦いにおいて、前田利家の寝返りや上杉景勝の圧迫もあり、成政は敗れ、娘を人質に出して剃髪することで秀吉に降伏することとなる。 |
天正12年 (1584年) |
小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康および織田信雄方につき、末森城を攻撃。 秀吉と信雄との間で和議が成立して家康が停戦すると、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)を自ら越えて、家康や信雄に再挙を促すも説得に失敗してしまう。 |
天正13年 (1585年) |
秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲し、成政は信雄の仲介により降伏。 新川郡を除く全ての領土を没収される。 |
天正15年 (1587年) |
秀吉に仕えた後は、九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられる。 この頃病に伏せていたとも言われ、太閤検地に反発する国人が一斉蜂起した際には、自力でこれを鎮めることができなかったことへの責任を取り、法園寺にて切腹する。 |