戦国大名『本多忠勝』(ほんだただかつ)とは
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・戦国大名
出典:wikipedia
生涯を松平家(徳川家)に仕えたほか、上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主も務めている。
通称は平八郎(へいはちろう)。
徳川家康の側近として仕え、仏教の四天王に準えて「徳川四天王」と呼ばれておりました。
徳川四天王 | |||
本多忠勝 | 酒井忠次 | 榊原康政 | 井伊直政 |
また、江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を称えた「徳川十六神将」とも呼ばれておりました。
※ 徳川十六神将は、徳川四天王を含む16人で構成されております
徳川十六神将 | |||
本多忠勝 | 酒井忠次 | 榊原康政 | 井伊直政 |
米津常春 | 高木清秀 | 内藤正成 | 大久保忠世 |
大久保忠佐 | 蜂屋貞次または植村家政 | 鳥居忠広 | 鳥居元忠 |
平岩親吉 | 服部正成 | 松平康忠または松平家忠 | 渡辺守綱 |
さらに、徳川家において武勇に秀でた3人を「徳川三傑」と称えられておりました。
徳川三傑 | ||
本多忠勝 | 榊原康政 | 井伊直政 |
家康の側近のなかでも忠勝の存在は、徳川時代を築く上で欠かせない人物とされております。
『本多忠勝』の略歴
天文17年 (1548年) |
本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で誕生しました。 |
天文18年 (1549年) |
父忠高が戦死したため、叔父の本多忠真のもとで幼少期を過ごす。 |
永禄3年 (1560年) |
桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣を飾ると同時に元服を果たす。 |
永禄6年 (1563年) |
三河一向一揆では、家康のもとで武功を挙げる。 |
永禄9年 (1566年) |
与力54騎を付属され、旗本部隊の将として活躍する。 |
元亀元年 (1570年) |
姉川の戦いにおいて、朝倉軍1万に対して単騎駆けを敢行する。 朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せる。 |
元亀3年 (1572年) |
家康率いる本隊を逃がすため、武田本軍の馬場信春の部隊を相手に奮戦する。 三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、山県昌景隊を撃退する。 |
天正元年 (1573年) |
長篠城攻めにおいて、榊原康政等とともに武田軍を破る。 |
天正5年 (1577年) |
長篠の戦いに参戦。 |
天正8年 (1580年) |
高天神城奪還戦に参戦。 |
天正10年 (1582年) |
本能寺の変が起こり、家康を逃がすため「伊賀越え」を行わせた。 |
天正12年 (1584年) |
小牧・長久手の戦いにおいて、わずか500名の兵を率いて豊臣の大軍の前に立ちはだかる。 あまりの大胆不敵さに、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛された。 |
天正14年 (1586年) |
従五位下・中務大輔に叙位・任官される。 |
天正18年 (1590年) |
家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に榊原康政とともに、10万石を与えられる。 |
慶長5年 (1600年) |
関ヶ原の戦いで、家康本軍に従軍。 前哨戦ともいえる竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦。 本戦においても奮戦し、僅かな手勢で90にも及ぶ首級を挙げる。 |
慶長6年 (1601年) |
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石を与えられる。 |
慶長9年 (1604年) |
病にかかるようになり、家康に隠居を申し出るも慰留されてしまう。 |
慶長12年 (1607年) |
眼病を患う。 |
慶長14年 (1609年) |
嫡男の忠政に家督を譲り隠居する。 |
慶長15年 (1610年) |
伊勢国桑名で死去する。 |