戦国大名『島津義久』(しまづよしひさ)とは
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり 薩摩国の守護大名・戦国大名
出典:wikipedia
島津氏の家督を継いでからは、薩摩・大隅・日向の三州を制圧します。
耳川の戦いでは、九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝したほか、沖田畷の戦いでは、九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏をも撃ち破りました。
島津氏第15代当主である島津貴久の嫡男であり、3人の優秀な弟とともに九州統一を目指しました。
兄弟だけではなく家臣にも恵まれ、筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収めました。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐により降伏するまでに追い込まれます。
豊臣政権下から徳川政権に移り変わってもその影響力は衰えず、晩年までその権威を持ち続けておりました。
『島津義久』の略歴
天文2年 (1533年) |
島津貴久の嫡男として伊作城で生まれました。 幼名は虎寿丸。 |
天文8年 (1539年) |
父貴久と祖父忠良で薩摩半島を平定する。 |
天文21年 (1552年) |
足利義輝より「義」の1字を受け、義辰に改名する(後に義久に改名)。 |
天文23年 (1554年) |
島津氏と大隅国衆(蒲生氏・祁答院氏・入来院氏・菱刈氏など)と戦い「岩剣城攻め」で初陣を果たす。 |
弘治3年 (1557年) |
蒲生氏を降伏させる。 |
永禄9年 (1566年) |
父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となる。 |
永禄12年 (1569年) |
相良氏と菱刈氏を討ち破る。 |
元亀元年 (1570年) |
東郷氏と入来院氏を降伏させ、薩摩統一を果たす。 |
元亀3年 (1572年) |
木崎原の戦いと並行して大隅国を統一する。 |
天正元年 (1573年) |
肝付氏と伊地知氏を帰順させて大隅統一をする。 |
天正4年 (1576年) |
伊東氏の高原城を攻略し三州統一をする。 |
天正6年 (1578年) |
大友宗麟が大軍を率いて日向国に侵攻し、一進一退の攻防戦(耳川の戦い)となる。 |
天正8年 (1580年) |
島津氏と織田信長とで交渉が行われ、大友氏との和睦を受諾することになる。 |
天正10年 (1582年) |
肥前国の龍造寺隆信が台頭してきたため、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取る。 |
天正12年 (1584年) |
義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後国の水俣まで出陣する。 沖田畷の戦いにおいて龍造寺隆信をはじめ、一門・重臣など3千余人を討ち取り勝利する。 |
天正13年 (1585年) |
阿蘇合戦において義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光を下す。 肥後国を完全に平定する。 |
天正14年 (1586年) |
八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取る。 岩屋城の戦いでは、城を落とせたものの、多数の死傷者を出してしまう。 戸次川の戦いでは、総勢6,000余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸してくるも、これを圧倒する。 |
天正15年 (1587年) |
豊臣秀吉率いる10万余の大軍勢が九州へ上陸したため、退陣を余儀なくされる。 徐々に行き場を失っていく義久は、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏をする。 秀吉は島津家の領地として、義久に薩摩一国を安堵する。 |
文禄3年 (1594年) |
秀吉政権が義久ではなく、義弘を事実上の島津家当主として扱うこととなったが、これを不服とした義久は依然として島津領内での実権を握っていました。 |
慶長5年 (1600年) |
関ヶ原の戦いにおいて義弘は西軍に加担することになるが、義久は義弘の援軍要請に応じなかった。 |
慶長7年 (1602年) |
島津家伝来の「御重物」を義弘の子である島津忠恒譲り渡して隠居するが、亡くなるまで家中に発言力を保持していました。 |
慶長9年 (1604年) |
大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築いて移り住む。 |
慶長16年 (1611年) |
国分城にて病死。享年79。 |