戦国大名『今川義元』(いまがわよしもと)とは
戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名
出典:wikipedia
今川氏第11代当主である今川義元は、今川氏親の三男して生を受けます。
母は側室であったとする説もありますが、正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)の子とされております。
生後すでに跡継ぎである兄の氏輝と彦五郎がいたため、4歳で仏門に出されます。
天文5年(1536年)に氏輝と彦五郎が急死したため、今川家の継承権が巡ってくることになります。
その後は内乱を治め、家督を相続します。
駿河を手中に治めてからは、周囲の国々に働きかけて次々と同盟を締結していきます。
松平家の所領を領有してからは尾張の織田へ矛先を向けていき、織田の勢力を三河から退かせるなど尾張進出への足掛かりを着々と築いていきます。
第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行い、両者の和睦を成立させるなど取りまとめる力があったものと推測されます。
織田との対立が激化してくると、永禄3年(1560年)5月に2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始しますが、桶狭間山で休息中に織田信長の攻撃を受けて最後を迎えます。享年42。
『今川義元』の略歴
永正16年 (1519年) |
今川氏親の三男して生まれる。母は正室の寿桂尼。 幼名は芳菊丸。 |
大永3年 (1523年) |
4歳のときに駿河国富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられる。 |
享禄2年 (1529年) |
琴渓承舜が没し、弟子の九英承菊(後の太原雪斎)が継承する。 その後雪斎と共に建仁寺に入り常庵龍崇の元で得度し法号である栴岳承芳(せんがくしょうほう)を名乗る。 さらに雪斎と共に妙心寺で大休宗休に学び学識を深める。 |
天文5年 (1536年) |
長男の氏輝が急死し、後を追うように二男彦五郎までもが死亡する。 継承権が巡ってきたことや寿桂尼の後押しもあり、主君であり本流に当たる征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜り義元と名乗る。 有力家臣であった福島氏が継承に反対しており、義元の異母兄・玄広恵探を当主として反旗を翻しました(花倉の乱)。 内乱を鎮めた義元は今川氏当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整える。 |
天文6年 (1537年) |
甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎える。 武田氏と同盟が成立(甲駿同盟)。 北条軍が駿河国富士郡吉原に侵攻する。今川軍は応戦するも河東を奪われてしまう。 |
天文9年 (1540年) |
尾張国の織田信秀が三河国に侵攻を開始。 |
天文11年 (1542年) |
義元は三河の諸侯軍と連合して織田軍との一大決戦に臨むが、あえなく敗退する。 |
天文10年 (1541年) |
北条氏綱が死去。北条氏は氏康が家督を継ぐ。 武田信虎の嫡男である武田晴信(信玄)がクーデターを起こし、信虎の身柄は義元が預かるも家督を相続した晴信とも同盟関係を続ける。 |
天文14年 (1545年) |
義元は氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を結び、武田の援軍をも得て河東に侵攻し、今川軍が北条軍を打ち破る。 窮地に立たされた氏康は武田晴信に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川家に返還するという条件で和睦する。 |
天文17年 (1548年) |
義元は三河を進出するも織田信秀が立ちはだかる。義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝する。 |
天文18年 (1549年) |
松平家の領主松平広忠が家臣の謀反で殺害される。これに乗じた義元は松平家が支配していた西三河地域を今川家の領土にする。 織田方の三河安祥城を攻略したことで、三河から織田家を駆逐することに成功する。 |
天文20年 (1551年) |
義元は織田信秀の死去を皮切りに尾張への攻勢を加速させていく。 |
天文22年 (1553年) |
室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、足利将軍家との関係を完全に断ち切り、自ら領国を統治する戦国大名であることを宣言する。 |
天文23年 (1554年) |
嫡子の今川氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成する。 |
弘治元年 (1555年) |
第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させる。 |
永禄元年 (1558年) |
義元は支配下においていた松平元康に、三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めさせる。 義元は氏真に家督を譲り隠居する。 |
永禄3年 (1560年) |
義元は那古野城を目指し2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始する。 大高城を松平元康が落とすと勢いに乗る義元は、沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させるが、桶狭間山で休息中のところを織田信長に攻撃されて討ち取られてしまう。享年42。遺体は三河国宝飯郡に埋葬された。 |