戦国大名『小西行長』(こにしゆきなが)とは
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名でアウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名
出典:wikipedia
はじめは宇喜多直家の元に仕えており、後に豊臣秀吉の家臣となります。
関ヶ原の戦いでは、西軍の将として奮戦しましたが、敗北して捕縛されてしまいます。
切腹を勧められますが、キリシタンであることを理由に自害できず、斬首されてしまいます。
小西行長は、当時の主君、豊臣秀吉の命で朝鮮に出兵しますが、自らの意志で明の将軍と密約をし、和平交渉を進めてしまいます。
この事実を知らされた秀吉は、大変激怒しましたが、罰せられることはなかったといいます。
数々の功績と信頼もさることながら、結果的に行長の行動が正しいと判断したのではないかと思われます。
また商人出身であったため、水軍や経済、外交官としても有能であったといいます。
その場の状況判断と、巧みな外交術を持ち合わせる人物です。
『小西行長』の略歴
永禄元年 (1558年) |
和泉国堺の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれる |
永禄5年頃 (1562年) |
ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンになったといわれている |
元亀3年 (1572年) |
御船組員として宇喜多家の家臣になる |
天正8年 (1580年) |
父とともに羽柴家で重用されるようになる |
天正13年 (1585年) |
摂津守に任ぜられ、紀州征伐では水軍を率いて参戦する 小豆島でセスペデス司祭を招き、キリスト教の布教を行う |
天正15年 (1587年) |
九州平定の折りに功をあげる 薩摩・平佐城攻略の大将として参加する |
天正16年 (1588年) |
肥後国人一揆討伐で功をあげ、肥後南半国の宇土、益城、八代の三郡約20万石を与えられる |
天正17年 (1589年) |
宇土古城の東の地(現在の熊本県宇土市古城町)に新たな宇土城を築城する |
文禄元年 (1592年) |
加藤清正とともに朝鮮に出兵する |
文禄2年 (1593年) |
石田三成と共に明との講和交渉に携わる |
慶長2年 (1597年) |
朝鮮へ再び出兵する 漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅させる |
慶長3年 (1598年) |
順天倭城の戦いで明側の謀略にあうが、窮地を脱する 豊臣秀吉が死去し、帰国の途につく |
慶長5年 (1600年) |
関ヶ原の戦いで石田三成に呼応し、西軍の将として参戦する 関ヶ原で敗北後は、市中引き回しの後、六条河原で斬首される |