戦国大名『豊臣秀吉』(とよとみひでよし)とは
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で三英傑の一人
出典:wikipedia
農民から天下人となった戦国乱世の英雄であり、戦国一の出世頭と言われています。
生まれこそ下層民の家でしたが、人の心を掴む天才であり、度量の大きさでも知られていました。
賤ヶ岳の戦いにおいては、熱暑に苦しむ負傷兵に大量の菅笠を買い、敵味方の区別なく被せて回り「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」と評価されたといいます。
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれた後は、大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たしました。
『豊臣秀吉』の略歴
天文6年 (1537年) |
尾張国愛知郡中村郷の下層階級の出身と考えられています。 |
天文19年 (1550年) |
侍になるために家出をして遠江国に行ったとされる。 松下家に仕えていた頃は、木下藤吉郎と名乗っている。 |
天文23年 (1554年) |
織田信長に小者として仕える。 |
永禄4年 (1561年) |
浅野長勝の養女で杉原定利の娘・おねと結婚する。 |
永禄7年 (1564年) |
美濃国の斎藤龍興との戦いで、坪内利定や大沢次郎左衛門らを誘降させる。 |
永禄8年 (1565年) |
信長の有力部将の一人として認められていたことを示す史料に、初めて秀吉の名が現れる。 |
永禄9年 (1566年) |
蜂須賀正勝・前野長康らを配下に組み入れる。 |
永禄11年 (1568年) |
近江箕作城攻略戦で活躍する。 信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任される。 |
永禄12年 (1569年) |
織田軍2万の大将として但馬国に派兵し、わずか10日間で18城を落城させる。 |
元亀元年 (1570年) |
越前国の朝倉義景討伐に従軍するも、盟友であった浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲。池田勝正や明智光秀と共に殿を務め、功績をあげる。 小谷城の戦いでは、3千の兵を率いて京極丸を攻め落とすなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげる。 |
元亀3年 (1572年) |
丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという希望で、木下から羽柴に改める。 |
天正元年 (1573年) |
浅井氏が滅亡した後は、長浜城の城主となる。 近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や石田三成などを登用する。 |
天正3年 (1575年) |
長篠の戦いに従軍する。 |
天正5年 (1577年) |
信貴山城の戦いで功績を挙げる。 播磨国に出陣しこれを平定する。 但馬国に攻め入り岩洲城、竹田城を攻略する。 小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて中国攻めの拠点とする。 |
天正7年 (1579年) |
備前国・美作国の大名・宇喜多直家を服属させる。 信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎える。 |
天正8年 (1580年) |
三木合戦において、別所長治を降伏させる。 但馬に侵攻し、抵抗していた山名祐豊が立て篭もる有子山城を攻め落とす。 |
天正9年 (1581年) |
鳥取城の戦いにおいて鳥取城を落城させる。 岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置く。 |
天正10年 (1582年) |
主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害したことを知り、すぐさま京都に軍を返している。 山崎の戦いにおいて、主君の仇である明智光秀に勝利する。 信長の後継者と遺領の分割を決めるため、清洲会議が開かれる。 信長の重臣である柴田勝家との対立が激しくなる。 |
天正11年 (1583年) |
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである賤ヶ岳の戦いにおいて勝利し、敗走する柴田勝家を自害に追い込む。 大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築く。 |
天正12年 (1584年) |
小牧・長久手の戦いにおいて、信雄に加担した徳川家康と、家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起する。戦いは、兵力で圧倒的に優位であった秀吉の勝利に終わり、豊臣政権として君臨することになる。 戦いの最中に、従五位下左近衛権少将に叙位任官する。 従三位権大納言に叙任する。 |
天正13年 (1585年) |
正二位内大臣に叙任する。 紀伊国を平定する。 黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込み、平定する。 越中国の佐々成政を降伏させる。 |
天正14年 (1586年) |
正親町天皇から豊臣の姓を賜わる。 太政大臣に就任し、豊臣政権を確立させる。 妹の朝日姫を家康の正室として嫁がせる。 母の大政所を人質として家康のもとに送る。 戸次川の戦いにおいて、九州平定を任されていた仙石秀久が敗戦する。 |
天正15年 (1587年) |
本格的に九州平定を成すために、豊臣軍総勢10万が各地で戦をする。 博多でバテレン追放令を発布する。 千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催する。 関東と奥羽の諸大名に惣無事令(大名間の私闘を禁じた法令)を発令する。 |
天正16年 (1588年) |
毛利輝元を完全に臣従させる。 刀狩令や海賊停止令を発布し、全国的に施行する。 |
天正17年 (1589年) |
側室の淀殿との間に鶴松が産まれる。 |
天正18年 (1590年) |
小田原征伐のため、20万の大軍で関東へ遠征し、包囲した後降伏させる。 陸奥の葛西・大崎、和賀・稗貫、出羽の仙北・由利・庄内の国衆たちによる一揆が起こる。 |
天正19年 (1591年) |
豊臣秀次を総大将とする総勢6万の大軍を奥羽に派遣し、鎮圧に当たらせ、奥羽を平定する。 全国を平定し天下を統一する。 弟の豊臣秀長、後継者に指名していた鶴松が相次いで病死する。 |
文禄元年 (1592年) |
明の征服と朝鮮の服属を目指して、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵させる。 |
文禄2年 (1593年) |
明との間に講和交渉が開始する。 側室の淀殿が秀頼(拾)を産む。 |
文禄4年 (1595年) |
家督相続の養子として関白職を得ていた甥の秀次に謀反の疑いが持ち上がる。その後、秀次を高野山青巌寺に流罪させ、賜死の命を伝える。 また、三条河原において秀次の遺児や側室、侍女に至るまで処刑する。 |
文禄5年 (1596年) |
禁教令を公布する。 |
慶長2年 (1597年) |
小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮半島に再出兵させる。 京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し、処刑を命じる。 |
慶長3年 (1598年) |
醍醐寺諸堂の再建を命じる。 病に伏せるようになり、伏見城で薨去し、62歳で生涯を終える。 |