戦国大名『山内一豊』(やまうちかつとよ)とは
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・戦国大名で土佐藩初代藩主
出典:wikipedia
豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、慶長5年に土佐国内およそ10万石を領有する大名となります。
土佐藩の領域は戦国時代末期の頃、長宗我部氏が統治しておりましたが、関ヶ原の戦いにおいて長宗我部盛親は西軍、山内一豊は東軍に組みしており、結果徳川軍が勝利したことで、山内氏が治めるようになりました。
土佐国はそのまま明治時代初頭まで山内氏が治めていくこととなります。
『山内一豊』の略歴
天文14年 (1545年)頃 |
山内盛豊の三男として尾張国の黒田城もしくは岩倉で誕生したとされる。 |
永禄2年 (1559年) |
父盛豊が統治していた岩倉城が落城し、父盛豊は討死にする。 主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。 |
永禄11年 (1568年) |
士官先を転々とするも織田信長の配下に入り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の下で家人となったと見られている。 |
元亀元年 (1570年) |
姉川の戦いで初陣を飾る。 |
天正元年 (1573年) |
一乗谷城の戦いで敵将三段崎勘右衛門を討ち取る。 近江国浅井郡唐国で400石を与えられる。 見性院と結婚する(元亀年間から天正元年の間であったと見られている)。 |
天正5年 (1577年) |
播磨国有年を中心に2,000石を領有する。 播磨の三木城を巡る戦いや因幡の鳥取城包囲・高松城水攻めなどにも参加。 |
天正9年 (1581年) |
馬揃えの際に、妻の見性院が蓄えておいた黄金で良馬を買って一豊の武士としての面目を施させたという美談が残っている。 |
天正11年 (1583年) |
賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢亀山城攻めで一番槍の手柄を挙げている。 |
天正12年 (1584年) |
小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉の命で家康を包囲するための付城構築の作業に当たる。 |
天正14年 (1586年) |
近江へ移り、長浜城主として2万石を領有する。 |
天正18年 (1590年) |
小田原征伐や山中城攻めにも参戦。 この頃から大名としての行動が見られるようになる。 |
文禄4年 (1595年) |
秀次の謀反の疑いがあり、秀吉の命令で取り調べを行うが、疑いが晴れぬまま処刑となる。 |
慶長5年 (1600年) |
秀吉亡き後は、家康に従い会津の上杉景勝の討伐に参加。 家康の留守中に石田三成らが挙兵した際に、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する行動を起こし家康への忠義を示す。 関ヶ原の戦いの前哨戦において、西軍に味方した織田秀信の軍勢を池田輝政や浅野幸長らと共に破る。 関ヶ原の戦い後は、小山会議で去就を決めかねていた諸侯を取りまとめたことが評価され、土佐国およそ10万石を与えられる。 |
慶長6年 (1601年) |
旧長宗我部氏の家臣団による土佐国内での紛争が起こる。 高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行う。 |
慶長8年 (1603年) |
豊臣姓を下賜されて、従四位下土佐守に叙任する。 |
慶長10年 (1605年) |
高知城にて病死。 |