戦国大名『上杉謙信』(うえすぎけんしん)とは
戦国時代から安土桃山時代の武将・戦国大名
出典:wikipedia
戦国時代において、最強の軍神といわれるほど戦に長けた人物であり、後に越後の虎、越後の龍と称されました。
越後国で生まれ、その後も越後国を治めます。名前の謙信は法号であり、上杉輝虎と名乗っておりましたが、上杉謙信としての知名度の方が勝っております。
謙信は「義」を重んじた人物としても有名であり、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしないという強い意志がありました。
一方、他国から救援を要請されると出兵するなど、私利私欲では戦はせず、道理が通るときには、誰にでもその力を貸したといわれています。
『上杉謙信』の略歴
享禄3年 (1530年) |
長尾為景の四男として越後国の春日山城(現在の新潟県)で生まれる 幼名は虎千代 |
天文5年 (1536年) |
父・為景が隠居し、兄・晴景が家督を継ぐ 虎千代は城下の林泉寺に入門する |
天文11年 (1542年) |
父・為景が病没し、亡骸を虎千代が護送する |
天文12年 (1543年) |
虎千代が元服 長尾景虎と名乗る |
天文13年 (1544年) |
栃尾城の戦いで内乱が絶えなかった越後の豪族が謀反を起こすが、景虎は鎮圧することに成功する |
天文14年 (1545年) |
黒田秀忠が謀反を起こし、黒滝城に立て籠もる 景虎は黒滝城の戦いで、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させる |
天文15年 (1546年) |
再び黒田秀忠が挙兵するも、景虎はこれを撃退する |
天文17年 (1548年) |
兄・晴景が景虎を養子とした上で家督を譲り、景虎は19歳にして家督を相続し、守護代となる |
天文19年 (1550年) |
将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認める |
天文20年 (1551年) |
景虎は相次ぐ内乱を鎮圧して越後国統一を成し遂げる |
天文21年 (1552年) |
相模国の北条氏康と敵対することになる 従五位下弾正少弼に叙任される |
天文22年 (1553年) |
武田晴信(後の武田信玄)が小笠原長時が治めていた信濃国に侵攻する 救いを求めてきた小笠原長時を擁護したため、侵攻してくる武田軍と、この後何度も戦をすることになる |
天文23年 (1554年) |
家臣の北条高広が武田と通じて謀反を起こす |
天文24年 (1555年) |
北条城の戦いにおいて、自ら出陣し、高広の居城・北条城を鎮圧する その後信濃国へ出兵したが決着はつかず、今川義元の仲介のもとで晴信は景虎に和睦を願い出てきたため、これを了承する |
弘治2年 (1556年) |
家臣同士の領土争いや国衆の紛争が絶えず、疲労困憊していたため、突然出家・隠居することを宣言する 高野山に向かう景虎であったが、家臣らの説得で出家を断念する |
弘治3年 (1557年) |
晴信が盟約違反をしたため、再び川中島に出陣するが、越中国で一向一揆が起きたため、軍を引き上げる |
弘治4年 (1558年) |
将軍・義輝から上洛の要請がある |
永禄2年 (1559年) |
高梨政頼の本城・中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城 |
永禄3年 (1560年) |
越中の椎名康胤が神保長職に攻められ景虎に支援を要請する 景虎はこれを受け入れ、長職の居城・富山城を落城させる 桶狭間の戦いにより今川家が崩れたことを機に北条氏康を討伐するため関東へ向けて出陣する |
永禄4年 (1561年) |
軍を率いて上野国から武蔵国へ進撃し、各拠点を支配下に治めつつ氏康の居城・小田原城を目指す 小田原城の戦いにおいて、籠城する氏康を追い込む 背後にいた武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せたため帰国する 帰国後に川中島へ出陣し、多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与える 山内上杉家の家督と関東管領職を就任したため、名を上杉政虎と改める その後幾度となく攻防戦を繰り広げるなか、将軍義輝の一字を賜り、輝虎と名を改める |
永禄5年 (1562年) |
越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させる |
永禄6年 (1563年) |
再び武蔵国へ侵攻する 次々と城を陥落させ、下総国にまで進出し、結城城城主・結城晴朝を降伏させる |
永禄7年 (1564年) |
北条方へ寝返った小田氏治を討伐する 上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国する 武田信玄と5度目になる川中島での戦いは決着せず越後に兵を引きあげる |
永禄8年 (1565年) |
越前の朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していたため救援する 将軍・足利義輝が殺害される |
永禄9年 (1566年) |
常陸国へ出兵して小田氏治を降伏させる |
永禄10年 (1567年) |
再び反旗を翻した佐野昌綱を降伏させる 直臣であった北条高広までもが北条に通じて謀反を起こしたためこれを制圧する |
永禄11年 (1568年) |
新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命される 越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するが決着がつかず、越後国へ帰国する |
永禄12年 (1569年) |
椎名康胤を討つため松倉城の戦いで支城の金山城を攻め落とすものの、信玄が上野国へ侵攻したため松倉城の攻城途中で帰国する |
元亀2年 (1571年) |
再び椎名康胤を攻撃し制圧する |
元亀3年 (1572年) |
武田方の付城・石倉城を攻略する 越中の一向一揆を鎮めるため激戦となるが、これを制圧する 織田信長と同盟を締結する |
天正元年 (1573年) |
越中一向一揆が再度富山城を奪うが、再度これを攻め落とす 足利義昭に足利家再興を依頼される |
天正2年 (1574年) |
関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃するも陥落させられずに帰国する |
天正3年 (1575年) |
養子の上杉景勝に弾正少弼の官途を譲る |
天正4年 (1576年) |
越中国に侵攻して、一向一揆を鎮め越中を平定する |
天正5年 (1577年) |
春日山城に帰還し、次の遠征の準備中に急死する |