織田信長とお寺・神社

更新日2022.06.22

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戦国大名『織田信長』(おだのぶなが)とは

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で三英傑の一人


出典:wikipedia

戦国時代において、天下統一を目前まで成した人物です。

桶狭間の戦いで今川義元を討ち、尾張一国を統一しました。
のちに、京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭を追放、武田勝頼を三河の長篠で破り、安土城を築いたことでも知られています。

中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあって自害したといわれていますが、その死因には多くの説が語られております。

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『織田信長』の略歴

天文3年
(1534年)
尾張国(現在の愛知県)で誕生 幼名は吉法師
幼いころから破天荒な一面を見せており、皆からは「尾張の大うつけ」と呼ばれるほどに周囲を驚かせていた
天文15年
(1546年)
元服し信長と名乗る
美濃国の斎藤道三との和睦の折に、道三の娘「濃姫」と政略結婚をする
天文20年
(1551年)
家督を継ぐ
永禄3年
(1560年)
2万5千の大軍を率いて今川義元が尾張国へ侵攻
兵の数で圧倒的に不利な信長は、少数の軍勢で今川本陣を強襲し、桶狭間で総大将の今川義元を討ち取る
永禄5年
(1562年)
松平元康(後の徳川家康)と清洲城にて同盟を結ぶ
永禄12年
(1569年)
尾張と美濃を治め、畿内遠征、播磨侵攻を経て伊勢をも手中に治める
元亀元年
(1570年)
姉川の戦いで徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍を撃破
元亀2年
(1571年)
比叡山延暦寺を焼き討ちにする
天正2年
(1574年)
上洛して従三位参議に叙任
天正3年
(1575年)
織田・徳川連合軍と武田軍の戦い(長篠の戦い)が行われ、火縄銃を主力とした織田・徳川連合軍が勝利する
天正3年
(1575年)
権大納言に任じられ、さらに右近衛大将をも兼任する
この時点で、武家であった信長は、室町将軍家と同等の地位となる
天正10年
(1582年)
全国平定を目前にしていたが、本能寺の変により50年の生涯に幕をおろす

関連する寺院・神社

本能寺
京都府京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522
☞ 信長が自害した寺院で、消失後は現在の場所に再建
政秀寺
愛知県名古屋市中区栄3丁目34-23
☞ 信長の教育係であった平手政秀の霊を弔うために建立
熱田神宮
愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1
☞ 桶狭間の合戦前に、信長が必勝祈願をした場所
阿弥陀寺
京都府京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
☞ 信長の遺骨を清玉が持ち帰り、葬った場所
建勲神社
京都市北区紫野北舟岡町49
☞ 信長の功績を称え、明治天皇が創建した神社
六条本圀寺
京都府京都市山科区御陵大岩6
☞ 三好勢が襲撃した報告を受けた信長が、援軍に駆け付けた場所
比叡山延暦寺
滋賀県大津市坂本本町4220
☞ 敵方であった朝倉・浅井に味方、焼き討ちにされた場所
大徳寺総見院
京都府京都市北区紫野大徳寺町59
☞ 信長の一周忌に間に合うように豊臣秀吉が建立した寺院
根来寺
和歌山県岩出市根来2286
☞ 石山合戦で僧衆による鉄砲隊が活躍し、信長とは一時友好関係にあった寺院
相国寺
京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
☞ 今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を披露してもらった場所
妙覚寺
京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135
☞ 姉小路頼綱を茶会の席に呼び寄せた場所
万松寺(萬松寺)
愛知県名古屋市中区大須3丁目29-12
☞ 那古野城の南側に建立された織田氏の菩提寺

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