島左近とお寺・神社

更新日2022.06.22

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戦国武将『島左近』(しまさこん)とは

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で 石田三成の家臣として知られる


出典:wikipedia

大河ドラマや戦国時代をテーマとした映画などでは、島左近の名で知られていますが、自筆の書状から嶋清興(しまきよおき)の花押を使用していたことから、嶋清興が正式な名前であるといわれています。

また名前の左近は通称であり、当時の官職でもあり、宮中の警固などを司る近衛府(このえふ)の左翼を担う武将と遜色ないほど有能だということから呼称されるようになったといわれています。

天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、西軍を指揮していた石田三成からは、三顧の礼をもって手厚く迎えられ、「治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だったといわれています。

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『島左近』の略歴

天文9年
(1540年)頃
大和国(現在の奈良県生駒郡平群町周辺)で誕生したとされているが定かではない
父は島政勝
永禄5年
(1562年)
教興寺の戦いで筒井順昭の指揮下で参戦するが敗走したと見られている
その後は大和国郡山の筒井順慶に仕えたとされる
元亀2年
(1571年)
辰市合戦に参戦する
島左近は筒井順慶に従い参戦していたとされる
天正5年
(1577年)
信貴山城の戦いで筒井順慶が松永久秀を討伐する
島左近はこの戦いでも武功を挙げたものと見られるが定かではない
この戦いの後に筒井家が治める大和国を内政面でも支えたとみられている
天正9年
(1581年)
織田信長の命により筒井順慶に従い武田攻めをする
天正10年
(1582年)
本能寺の変が起こり、明智側につくのか羽柴側につくのか順慶と左近は最後まで居城の大和郡山城でどちらにもつくことはなかったとされる
天正12年
(1584年)
筒井順慶が死去し、筒井定次が継ぐ
順慶の甥である筒井定次とは、たびたび意見が合わなかったといわれている
天正13年
(1585年)
羽柴秀吉が紀伊攻略をした際に共に奮戦する
天正16年
(1588年)
島左近の嫡男 信勝が産まれる
島領の農民と中坊秀祐領の農民との水利をめぐる争いが原因で筒井家を出奔
奈良興福寺の塔頭持宝院に身を寄せる
天正18年
(1590年)
石田三成から仕官の要請があり、再三断るものの説得され仕官する
三成の重臣として小田原討伐後に重要な書状を届ける使者を務める
文禄元年
(1592年)
三成に従い朝鮮出兵に従軍する
慶長5年
(1600年)
関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦いで勝利する
関ヶ原の戦いでは「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れられ徳川勢相手に奮戦する
陣頭に立ち猛将ぶりを見せるが戦いの最中討ち取られる

関連する寺院・神社

立本寺教法院
京都府京都市上京区一番町 七本松通仁和寺街道上る一番町101
☞ 島左近の墓所がある寺院
教興寺
大阪府八尾市教興寺7丁目21
☞ 筒井順昭の指揮下で参戦した場所
興福寺
奈良県奈良市登大路町48
☞ 筒井家を出奔し身を寄せた寺院
安楽寺
岐阜県大垣市赤坂町756-1
☞ 杭瀬川の戦いで徳川軍と戦いをした場所
立本寺
京都府京都市上京区一番町
☞ 島左近の墓地がある寺院

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