戦国大名『京極高次』(きょうごくたかつぐ)とは
戦国時代から江戸時代初期の武将であり戦国大名
出典:wikipedia
浅井の居城内で生まれた京極高次は、近親が豊臣秀吉と関わりを持つようになったため、その者たちの恩恵で出世したとされ、「蛍大名」と囁かれた人物です。
大津城の戦いでは、居城の大津城に篭もって1万人を超える西軍の大軍勢を食い止めるなど、親族の七光りのみで、出世してきたわけではありませんでした。
父は京極高吉、母は浅井久政の娘である京極マリア。高次の幼名は「小法師」。
幼少期の高次は、足利と織田が対立した際に美濃国へ人質として送られ、過ごしていました。
本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた際には、明智方に組みしており、山崎の戦いで秀吉に追い詰められながらも、若狭国の武田領へと逃げ延びました。
その後、妹の竜子が秀吉の側室となり、妹の嘆願などもあり、秀吉に仕えることとなりました。
秀吉が没した後は、徳川家康と石田三成の対立が深まるなか、三成率いる西軍に組みするも、その西軍の動向を家康の東軍に伝えるなど、どちらへも顔を利かせることをしていました。
関ヶ原の戦いでは、西軍でありながら戦には参加せず、大津城にて西軍を迎え撃つ決断を下しました。
結果的に家康の勝利となった関ヶ原の戦いにおいて、高次の取った行動が、高く評価されることとなりました。
47歳で没することになりますが、その死因については、現時点(2019年7月)で明らかにされておりません。
『京極高次』の略歴
永禄6年 (1563年) |
近江国の小谷城京極丸で生まれる。幼名は小法師。 |
元亀4年 (1573年) |
宇治の槇島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、近江国奥島5,000石を与えられる。 |
天正10年 (1582年) |
本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、妹の竜子が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀側に就く。 山崎の戦いで光秀が秀吉に討たれると、若狭国の武田領へと逃れ、柴田勝家にかくまわれる。 |
天正12年 (1584年) |
秀吉に仕えることになり、近江国高島郡2,500石を与えられ、その翌年には5,000石が加増される。 |
天正14年 (1586年) |
秀吉の九州平定の功績が認められ、1万石の加増に加えて、大溝城を与えられて大名となる。 |
天正15年 (1587年) |
京極家の旧家臣である浅井家の娘・初(高次の従兄妹)を正室とする。 |
天正18年 (1590年) |
小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石となる。 |
天正19年 (1591年) |
豊臣秀次の関白就任に伴い、高次は従五位下侍従に任ぜられる。 |
文禄4年 (1595年) |
近江大津城6万石の加増と、従四位左近衛少将への昇進。 |
文禄5年 (1596年) |
従三位参議(宰相)に任ぜられる。 |
慶長5年 (1600年) |
徳川家康と石田三成の対立が深まる中、高次は大津城の守りが弱いことから一旦は西軍へ属することを決める。 西軍として大津城を発つも、関ヶ原へは向かわず、大津城へ戻り、籠城し西軍を抑える旨を、家康の重臣である井伊直政に伝える。 西軍に反旗を翻した高次は、籠城して応戦するも、2ヶ所に槍傷を受けるなどして降伏することになる。しかし、結果は家康率いる東軍の勝利となり、西軍の軍勢を大津に引きつけた功績を高く評価し、若狭一国8万5,000石へ加増転封する。 |
慶長6年 (1601年) |
近江国高島郡のうち7,100石が加増される。 大坂の陣を控えた徳川家康の命により、二条城に似た小浜城を築き始める。 |
慶長14年 (1609年) |
5月に47歳で没する。 |