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天下統一を果たしたことで、室町時代から続いてきた戦乱の世に終わりをもたらせた徳川家康(とくがわいえやす)。後に260年も続く安定した江戸時代の基礎を作った人物でもあります。
ここでは天下人となった徳川家康ゆかりの寺院神社を紹介するとともに、家康の人物像と天下統一を果たせた理由についても紹介しています。
■ 徳川家康とはどのような人物?
徳川家康は岡崎城(現在の愛知県)で生を受け、3歳にして母と生き別れとなり、幼少期は今川氏の人質として駿府で過ごします。
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれてからは、岡崎城を居城として自立していきます。
合戦においては生涯で50戦以上も戦をしており、勝ち戦は30回もありますが、敗戦もしくは引き分けも含めて20回あったことから、天下統一をするまでに意外と負けていたことがわかります。
■ 家康の好物
健康に人一倍気を使ったと言われる家康でしたが、晩年には好物の天ぷらをかなりの頻度で食していたと言われており、天ぷらが原因で亡くなったとさえ言われております。
自ら漢方薬の調剤を行えた家康は75歳まで生きます。この時代の武士の平均寿命が42歳と言われていたことからも、家康は驚異的な長寿であったと言えるでしょう。
また、家康は読書好きに加えて学問好きでも知られており、日頃から書物を読んで教養を高めていたとされております。
■ 家康の通り名
家康の容姿は背が低く太っており、合戦では、ずる賢く相手を苛立たせることにも長けていたため、周囲からは「狸おやじ」と囁かれておりました。
武芸においては、弓術に精通しており「東海一の弓取り」と呼ばれるほど馬上から敵を何人も射ち倒したと言われております。
「世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ」
この言葉は家康の若かりし頃、戦国最強の騎馬隊を誇った武田軍に惨敗したことから学んだ教訓とされております。
家康軍のおよそ2倍の兵力で攻めてきた武田軍が、籠城をしている家康軍の横を素通りしようとしておりました。その行動を見て好機と見た家康は、武田軍への突撃を敢行します。しかしこれは家康軍を誘うための武田軍が仕掛けた策略であり、家康は返り討ちにされ全滅しかけられたと言います。
家康は、勇者のように武功を重ねて猛進してくる敵よりも、臆病者の方が用意周到に計画して動くため、非常にやりにくく恐ろしいということを理解し、その後は慎重に行動するようになったと言われております。
家康は忍耐強さや我慢強さも兼ね備えておりました。これは幼少の頃に人質として生活を送っていたことから基盤としてあり、どのような場面においても感情的に行動することはなかったと言われております。
焦らず十分な準備を整えて戦略や軍略を立てていた家康ですが、人材起用も優れた才能を持っておりました。
家康には優秀な家臣が数多くおりますが、恵まれた環境にあったわけではなく、家康の人を見る目と適材適所の人選が優れていたと言われております。
天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いでは、家康の用心深さと粘り強さ、戦略と各武将の配置など、これまで経験してきたことが要所要所で発揮され、天下統一を果たします。その後は260年も続く幕府の礎として、家康モデルが代々引き継がれていくこととなります。
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